昭和51年01月18日 朝の御理解
御理解 第20節
「此方が天地金乃神よりおかげを受けておることを話にして聞かすのぞ。疑うて聞かぬ者は是非におよばず。かわいいものじゃ。また時を待っておかげを受けるがよし。めいめいに子を持って合点せよ。親の言うことを聞かぬ子が一番つまらぬ。言うことを聞かぬ子は、親もしかたがあるまいが。」
これは信心を頂いておっても、親の言う事を聞かぬ信者氏子が多いのじゃないだろうかと思いますね。私は金光様の信心を頂いておるという人でも、「此方の道は祈念祈祷で助かるのじゃない。話しを聞いて助かる」と仰しゃいますから、どうでも話しを聞かないけん。けれども成程聞いてはおるけれども、それを実行しない、守らないというならば、いうならば聞かぬも同じことであり、「言う事を聞かぬ子は、もう親でもしかたがあるまいが」と言う事になってくるのではないのでしょうかね。
私があの有り難いと思います事は、今、毎日朝の御理解を午後からの研修にさせて頂きます。皆さんが本当にその日の御理解を見事に、それぞれのいうなら個性というか、信心程度に応じてではありますけれども、朝の御理解を見事に頂き止めておると言う事ですね。もう本当にあの本当に頂きたい、本当に信心を頂きたい本当に信心によって助かりたいという人達の、矢張りものはなんか本当に躍如たるものがありますよやっぱり。所謂どういう難しい例えばお話しでも。
それを本気で分かろうと努めて、そしてここを分かってくれとまあ言われる、私は例えばお話ししながら思うておる所をきっちり頂き止めておる。それをね親先生が言われる事が本当に「そうだそうだ」と言い思いながら、あの頂いておると言う事が素晴らしいと思います。「先生あげな事言いよんなさるが、ほんなこつじゃろうか。」というていわば疑ごうて聞いていないと言う事。もう一から十までを本当だ、そうどこじゃなかというふうにいわば否定せずに、肯定しながら頂いておると言う事です。
もうこれが一番素晴らしい。なら肯定して頂いたからというて、なら分かったからというて、その人のものなるのじゃありません。そこからがです愈々親の言う事を聞く事になるのです。昨日はうん、皆さんのお初穂を頂き終わった後で、いつも若先生が一言、まあ総括的なというか頂いた感じというか、そう言う様な事を一言いうんです、でも本当あげんしてほけんごとして聞いとるか、聞いとらんか分からんごとしとるばってん、やっぱ良か所頂いとるなあと言うて(笑い)、夕べまあ合楽会でしたから。
そん時話した事でしたけどね。こう言う事を言っとります。昨日の御理解の中から、もう厳密に様々な角度から、修行生の方達はもう見事に頂き止めておる。それを例えば「神の言う事は、千両の金にも変えがたい」とこう言う。「おかげは船にも車にもつめぬほどの神徳がある」というふうに、教えておられるけれども、昨日は例えば御信者さん方、一般としてはですね。
「親先生の言われる一言はそれこそ神様の仰しゃる事と同し事だ」と言う様な本気で親先生の言う事を聞かなきゃならん、そしておかげを受けなければならないという、そのその程度に受け止めておられると言う訳です。ですからなら長年十年二十年、又それより以上に信心なさっておられる方が、あん時親先生の一言でこういうふうに決まった。あん時親先生の一言でこういう岐路に立っておったのが、こういうおかげを受けたと言う様ないうなら、そういうおかげに信者さん御一同は受け止めた様な感じですよ。
ところがなら修行生の方々が、昨日発表を聞いて感じる事はです、これは本当にもう一言一言ではなくて、これからの生涯にかけての事ね。親先生の言われる事を「神様の一言」として頂くと言う事がですもう生活全体が、いうならば親先生に身も心も任せての修行をしなければならんと頂いておるという。だから車に積めぬほどしのおかげ。「おかげは、車にも船にも積めぬほどの神徳がある」という頂き方を修行生の方達がしとる、この二つの頂き方があったように思うと言う事を申します。
私はそれを聞かせて頂きながら「なるほど、そうだな。」と思いました。昨日朝御祈念の後に次々とお参りなられる方達が、テープでその御理解を頂きながら、例えて言うと吉井のはたのさん「もう先生今日の御理解を頂いておっても、本当に神様の一言親先生の一言はそのままが幸、不幸又はおかげになるならんの一言で決まった。」と言う事が、今日の御理解を頂いて、まあ改めて思いました、というてあちらに御普請を始められる時の話しをお届けしておられました。
まあちゅうちょしとった訳ですね。けれども神様が「とにかく速やかに急いだがよい」と言う事を頂いて、息子さんと話し合ってとにかく、急いでその手続きをとって家を建てる事にした。もう会社の方でそういう資金を貸してくれるのが、あそこは( ゆうぞう )さんちいう息子さんがいますが、(ゆうぞう)さんが借りられたきりだったそうです。後は貸さないち言う言。そして出来上がりました。そん時に、なら(ゆうぞう)さんの結婚の話しが起こりましたと。
しかも実に神ながらな、大和さんが仲人さんでしたけれども、神ながらなおかげを頂いたが、どっこい第一結納金が無かったとこういう。親子でも大変心配したけれどもです、本当昨日御理解で頂くように、「ここまでおかげを下さって、後は知らんという神様じゃない」と言う事がです、今日の御理解を頂いて、本当にそれどころじゃない。もうそれこそ、不思議な不思議な働きの中にです、もういうなら結納金もでけた、結婚式もでけた、そして新しい新築の家にも住む事がでけた。
と言う様にですあん時にもし親先生の( ? )がなかったならばです、あの一言が無かったなら、とても思い切って家を建てると言う様な事は出来なかったかもしれんと、出来なかったかもしれんじゃなく、出来なかったと言っておられます。そのすぐ後から久留米の笠さんが参って見えました。皆さんご承知のようにああいう大変、真面目なお方ですから、塚本さんという大きなお醤油さんが、大変そのまあ気の毒に思われて、そのああいう自動車修理をなさいますから、空き地がなからにゃならん。
それで空き地を無償のようなことで貸された。そして家は自分で建てられたそうです。小さい私は一遍も行った事はないけれども、以前合楽の方達がそこに頼みに行きよんなさったけん、みんな知っとりましょうが、それこそ小屋のようなお家を建てられた。自分で。終戦後の事ですからね。そして、自動車の修繕をあちらで始められたわけです。もうその醤油屋さんの旦那さんという人が大変な人格者で、もう本当にあの人の人物に見込んで、まあそう言う事をしてあげられたわけです。
所があの西鉄があの今度変わりましたですね。高架線に。そん時に丁度そこの土地が掛るから、そこを笠さんにこんな訳だからもうすぐ空けてくれ、と思われて空けてくれと頼まれた所が、どっこいいくら待ても、待っても笠さんが空けられん訳なんですよ。だからもう私は「笠さんあんたをみそこなった」という訳でね、所が実はそん大将その私がご承知のように、当時の椛目です椛目にお参りしとりますから、あちらの親先生が「まだのかんでよか。家は探さんでよか」ちいいなさる。
そげな事言うごたる先生なら、私が行ってから談判してくるというて、塚本さんの御主人を連れてから、笠さんが見えた事がございます。で私が「そりゃ成程、もう日にちも迫っておるから、そうでもありましょうけれどもね、私も自分の力で、神様に頂くからそうやって、言うておる事であって、大変気の毒なごつあるけれども、決して愈々の時には、私が空けさせますから、どうぞ私に免じて暫く待って下さい。
と言うて申しました様な事。そんな訳でしたがそれからまもなくでしたが、ほんの近くに今の家が見つかったんです。もうそれこそあの大きな風呂屋さんの跡でしたからね。自動車修繕の工場にもよか、二階にも住まいにする。最近はそれに手を入れられ、立派になされておると言う事でございますけれども、もうそのへんの所のもうそれは、まあ今でこそ話せた、たったそれだけの事ですけれども、それまでのことは、ただ神様の一言を、そう例えば信じてね。神様の一言はおかげの。
いわばこういう間違えのないおかげが受けられるという体験を、例えばここの皆さん、まあ殆どの方がそういう体験を持っておられると思うです。あの熊本の松村さんが参って来とりますが、あちらがあの今の松村石油を始める時なんか、どんなに考えても、その松村石油が出来るどん、どんなに考えたっちゃ出来るはずなかったんです。けれどもおかげででけて、おかげを頂いて段々日勝り、月勝りにおかげを頂いておる。
昨日は遅うから、安東さんと嘉朗さんの二人がお礼にでてきましてから、もうそれこそ神様の一言がです、こういうおかげの展開になってくるち言う事は、夢にも思わんような、おかげの展開になってきておる話しを聞くと。もう支離滅裂どうにもできないと言う様な筈の問題が、もう実に見事にすきぐしで空いた様に問題が解決しておる。しかもおかげになっていっておる。だからそういう程度に御信者さん方は、昨日の御理解を頂いておられるようだというのです。
その合間は自分の良かごとしよるというわけ(笑い)ね。そんならここの修行生の方々はその合間、例えば久留米にちょっとやらせて頂くと言う事ですらがです、自分という者を空しゅうしてね、もうどうでもよいという気持ちでお伺いをして、行くならいく行かんならいかんと腹を決めると言う事。今戎浦さんがここで修行しております。丁度二十で成人式です。それでそのために着物も作った、成人式にはこうと親御さんも、それを楽しみにしとっただろうし、自分もそれを楽しみにしとった。
所が「親先生、この頃段々どうでもよい気になりました。」とこう言う訳なんです。それでどうさせて頂いたらよかろうかと言うから、「あんたが、どうでもよいという気になっとんなら、行かん事がほんなこつばい。」と私が申しました。今は只今修行中という看板をあげとるようなもんだから、そこが留守になったらどんこんされん。「只今修行中」というんだから行かんがよか。もうすっきりとして行かじゃった事が、有り難かった。そしたら栄四郎と二人がここで( ? )ね。
夕方までにもうこの位な、めのした一尺ちゅいうのでしょうか、ちょうど鯛の鯛のね、それこそ見事な鯛をもうあっちこっちから頂いたんです。家内がそしたら二人のお膳部作って御祝いしてあげにゃらならんのに、「もう本当に、神様ちゃ間違いのない事ねて。良江さんあんたがいうならば、親先生任せになったから、神様がこうして祝福して下さるとばい」というて御話した事でした。そして丁度霊様の御祭りやなんやらあってから、御馳走がいっぱいあったんです。
二人を正面に据えて、まあ簡単でしたけれども御祝いをさせて頂いた。ね。だからこういう世界がもう徳の世界です。その事だけではない。一切がいうならば身も心も親先生任せになっておると言う所からです、昨日の御理解のいうならば「おかげは船にも車にも積めぬほどのおかげがある」というのが、みなさんの頂き止めた所だろうと思う。所が家の修行生の方達の場合なんかはね、「おかげは船にも車にも積めぬほどの神徳がある」という、その「神徳」に触れていっておるという感じであります。
まあそりゃ過程ですから、どうでもよいですけれども、それでいいのです、大体いけれども、本当に矢張りお徳を受けると言う事になったら、一時が万事一切がいうならば「御神意のまにまに」と言う事になってくるんじゃないのでしょうか。私は「神様の言う事を聞かん」と言う事はね、あのいうなら反対に「神の言う事を聞く」と言う事は、そう言う事だと思うんです。皆さんの場合は、一つ色んな問題が起こった時にね、親先生にどげんしたらいいでしょうか。
それは右がよかばい。左がよかばい。と例えば言う事聞いて、それを実行するわけです。だから今私が二、三、例をもって御話しをしたように、本当にあの時に親先生の一言がなかったなら、どげんなったか分からんという体験を積んでいかれておるわけです。けれども是はどこまでもおかげの世界ね。そして「神様は間違えがないな間違えがないな」という思いを、ただ確信の心をだんだん創って行く事なんです。
所がんなら徳を受けると言う事は、私はね「親の言う事を聞く」と言う事が、徹底して聞くと言う事になる時に、私は親の喜びというのがあると思うです。昨日はこの村内の方で月に一、二回参って来る、敬神会に殆ど出てくるという、おばあさんがおられます。もう御話しを聞いとったら、もう私はもう本当に夕べは合楽会でしたからそん話ししたら、「本当に親先生、あんたおしゃる通りですよ。」て、村内の方達が言うとりなさいましたがね。お婆さんという方が、もう大変なやかましい御方じゃったげな。
だからもういうならもう本当にしんからこなされたて。ところが今度は嫁さんが又大変、元気もんな方じゃった。嫁さんがまたもうえらいこだわるげな。「あんたまるでサンドイッチのごたるの」ち私。上から下からこうやってはさまれたごたる(笑い)。もうほんにそうでございます。ち。私はここに御参りするまでは、本当私ごとフの悪か女子がおるじゃろかと、上からこなされ下からこなされで、それけんもうほんと自分でもう、その親の不足嫁子ん不足。
本当に近所にでも、言うて聞いてもらわにゃとおれんかったけれども、ここに御参りするようになったらです、たとえばそういう難儀と言う様な事でも、結局はじぶんじしんにこなされなきゃならないもとなら、もとがあると言う事を聞かせて頂いて、嫁の悪口でも言う様な事はいわば、のんぼり何いてつばを吐くごたることじゃから、と親先生にいつも教えられるから、この頃はおかげで人に持って行って悔やまんでよかごつなりました、とこう言うわけです。
けれどもやっぱり時々親先生にだけは聞いてもらわならんと言うて、嫁さんからこなされる、こなされるというかもう実にテキパキと、サラッとした嫁さんらしいんですよ。それでもう、本当にもう話しを聞いとって「いや成程」と思うのではございますけれども、その御取次ぎをさせて頂いておりましたら、その赤ちゃんをおんぶしておられるんです。おんぶというかねんねこですね。ねんねこでいつけ帯をね、いうならせずにこうやって背負うちゃる。だからいつも手をかけとかないかん。
赤ちゃんは寒うなかどと円前のごたるのを着ちゃるとです。そしていつけ帯をしとらんもんじゃから、いつも手をこうやってかけとかんとならん。だから前にあるものを取る時には、赤ちゃんがスッターと落ちるごとなってしまっとる。いつけ帯をしとらんもんじゃからね。これはいうならば赤ん坊というのは、まあ運命の赤ん坊だとね。そういう例えば、まあキリスト教的にいうなら、めいめいに一つの十字架をかろうておるわけです。難儀をそれぞれが持っておるわけです。
その難儀をめぐりのおとり払いを頂いて有り難いとか、この難儀のおかげで信心ができますとかいうて、育ててゆくと「この難儀が親を見てくれるようになる」と神様が仰しゃる。この難儀様のおかげで、今日のこういうおかげが頂けたと言う事になる。だからその難儀という背中におんぶしとるとを。大事に大事に育ていかなければならんのだけれども、どっこい信心の帯がしっかり出来ていない。いつけ帯をしとらんもんじゃから、いつでも手はこうやってしとかんならん。
大事にしとるごとあるけれども、愈々今からガツンとやられるとカチッと頭にくると。それを両方の手で受け止めると言う事がでけんのです。もうそれこそ例えばカチッと来る様な事であっても、両方の手がこうやって使えれば、それをパチッとこうやって合掌して受ける事が出来るです。所が後ろに赤ちゃんの尻に手を付けとるもんじゃから、大事にはしとるけれども、肝心要の信心の帯をしっかりとしておらんから、いざという時によろよろしたり、受けられないのだと言う事になのです。
そういう意味で例えば私、昨日この久保山さんという方がおられます。もう本当に毎日、あの御参りをされて御届けなさる事は、「どうぞ今日も、成り行きを大切に尊ばせて下さい」というのが、もういつもこの御願いがある。なかなか良い信心が出来られよる。昨日私が申しました。「久保山さん、もうその信心は古くなったばいち、合楽では。古なったというよりも、もうそれは身に付いて、血肉になっとらなならん。そこんところは毎日御届けをせんでもいい。
今なら合楽で毎日御届けせんならん事は、どうぞ今日もいうなら大払信行に取り組ませて下さい。一家中でどうぞ。」という願いを持たなければいけない。もういうならば成り行きを尊ぶとか、大切にすると言う事は、もう分かりきった事。だからそれを愈々十全足らしめる。それを愈々成り行きを本当に尊んで、有り難く受けさせて頂く事の為に、心の状態を創っとかないけん。その心の状態を創ると言う事が、今合楽で言われる大払信行だ、大払信行によってね。
まあいうならば無条件の真心で持って神様に通う、神様が生き生きと活力を増して下さる様な、おかげを頂いておるとです、その例えていうとまあ赤ん坊の話しをするならばです、いつも手を前に信心の帯をしっかりとしとりますから、手は自由に物を持つ事も出来りゃあ、その仕事も出来るわけ。さあ問題が起こったいう時、はっとすぐにその問題を合掌で受ける事ができる。そう言う様な信心をです、今合楽では身に付けて行く事を日々頂いておるわけなのであります。
だからそう言う事が日々の信心生活の中にでけておらないならばです、「神の言う事を聞いていないのも同然だ」と言う事になるのじゃないでしょうか。今日の御話しは素晴らしかったと、例えば言うて帰ってもです、帰った時には「エッと」というて、その説明もあんまり出来ないぐらいの事です。そこで最近は、なら勉強会とね。いわば朝の御理解をもう一遍も、もうにへんもひとつ頂き直してみて、そこを今日の行の上に現していくと言う事になった時に。
初めて「言う事を聞かぬ子は親でもしかたがあるまいが」と言われる、その反対に「言う事を聞いてくれる氏子には、神様がてんてこ舞いをしなさっておかげを下さる」と言う事になるのです。神様は氏子の前に、てんてこ舞いをしてでもおかげを下さろうとしておる神様です。そういう神様の働きが頂けるおかげを頂くために、愈々「此方が天地金乃神より、おかげを受けておる事を話しにしておくのぞ」と仰せられる。
ここでは私が神様から直接頂いたこと、金光大神の御理解御教えを、又それに合わせてそして私の体験を備え付けて皆さんに聞いて頂いておるわけですから、いうならば聞かなければバカらしか。聞いてそれを実行させて頂けば神様が喜んで下さる。こうやって毎日朝の御理解を頂いておると言う事だけが神の言う事を聞いておると言う事にはなりません。聞いてその内容が本当にその深さなら、深さに触れて、分ってそれが自分の血に肉になるために、その日の行を積んでいかなきゃならない。
例えば今合楽の修行生の方達がです、毎日の御理解を研修させてもろうて、本当に親先生の仰しゃる事がその通りだ。一分一厘間違いないことを教えて頂いておるんだ。と言う事を信じて、頂き止めておる事が素晴らしい。だからこれからはその事をなら、くり返し、くり返し自分のものにしていくための修行がいる。その修行が身も心も神様へ任せてからの修行じゃなからなければ、とてもできまいと思われるのであります。初めて神様の言うことを聞いた事になる。
「有り難く頂いて帰れば、おかげは船にも車にも積めぬほどの神徳がある」と言う事をお互いが、一人一人、それを実証していかなければならないという、そういう責任が金光様の御信心を頂く者にはあると私は思います。神様の言う事はうそじゃない。本当だという実証していくために、愈々神様の言う事を聞いて、実行する生き方を身に付けていきたいと思いますね。
どうぞ。